本と珍スポと教育と

本について語ります。珍スポットについて語ります。あとたまに教育について語ります。ゆるゆるとお読みください。

不味いラーメンは不味いんです「伏 贋作・里見八犬伝」(桜庭一樹)

ラーメン屋しか食べ物屋のない村の話し。

そこのラーメンはとっても不味い。しかも主人は不味いことを知っている。でも客はくるしお金も入るのでとりあえず不味くてもいいやって思い日々、不味いラーメンを量産している。

主人は考え方も変わっていて「俺のラーメンは不味いけど一生懸命作っているからいいじゃないか」と思い、自己満足する。

村人は不味いなぁと思いながらもラーメン屋はそこにしかないから仕方なく伸びてずるずるなラーメンを食べる。





・・・ラーメン屋の主人を先生、ラーメンを授業、村人を生徒で変換してください。



こんな教員が多くいませんって思うんですけど。他山の石にならないように「不味いラーメン」は売らないようにしよう。教員ってたまに間違っている人が多いのよ。不味い授業でも「自分は頑張っている」からいいだろって思う人がいるのよね。でそこからまた間違えが出る。「あいつは俺のラーメンの味がわからないんだ」「ラーメンは不味くても誠意があるなら許されるだろう」・・・いやラーメン屋なんだからラーメンの味が問題でないのかい?



翻って本の話し。

作家でも「一生懸命調べたんだからそれでいいじゃん」って小説ありません。問題はラーメンの味なのに。なんか作家が「書く」ことに酔ってしまっている気がするんだよね。

で、そんなの読まされるとうんざり。作者の自己満足だけが鼻につく。「これ俺が一生懸命作ったラーメンなんだから旨かろうが不味かろうがお前たちは読めよ」って。僕はこれを「固定客に胡坐をかく作家」と呼ぶ。総じてシリーズものを書く作家に多い(そしてラノベを書く作家にも多い)。あのね読者もしっかりと「この作家はいいけどこの作品は駄目だ」って伝えるべきだと思うんだよなぁ。

いやこれは駄目だった。

桜庭一樹『伏ー贋作里見八犬伝

まず桜庭の日本の知識のなさが露見してしまった。桜庭なりに文章を五七調にしたりして江戸戯作ブンガクを書こうとしているのかもしれないが如何せん薄っぺらい

あのね、百田なんかもそうなんだけど、調べて書いてる典型なんだよなぁ。そもそも江戸文学に素養がないから作り物臭さがプンプン匂う。いやこれ宇能鴻一郎小林恭二が書いたらもっと素養が「自然」に出ると思うんだけど桜庭の文章はどうみても「調べてみました」。だからそこに入り込めない。出来の悪いラノベの延長になってしまっている(ラノベ好きよ、すまん)。

さらに桜庭の悪い癖が出てしまった。「ファミリーポートレート」あたりから怪しいと思っていたのだがこの人はマジックリアリズムに頼りすぎ。現実でありながら現実でない虚実皮膜な世界を書いたつもりかもしれないが、そこを書けば許されるだろ的な「甘え」にしか読めないんだよなぁ。だからどうにも読んでいて「またこれかよ」って思ってしまう。

しかも今回はそもそもお話しが江戸世界なので「現実でない」。だからスタートから現実を異化するマジックリアリズムの効果が発揮されない。あのね、ファンタジーの世界で「ほら不思議でしょ」って言われても「ファンタジーなんだから不思議は当たり前じゃん」ってなってしまうんだよね。

可愛い女子と屈強なお兄ちゃんという「キャラへの依存」もこの本を興ざめにした原因。あのね、あまりにもステレオタイプすぎるんだよなぁ。またそれってつい言ってしまう。

というわけで僕の中ではかなり評価低いです。桜庭には「赤朽葉」や「私の男」で驚愕させられたのになんとも残念だ。また質のいい作品を期待しましょう。






この日記の前半は自分への戒めでもあります。不味いラーメンを売って威張っている店主にはならないようにしないとね。いやホント。

 

伏 贋作・里見八犬伝 (文春文庫)

伏 贋作・里見八犬伝 (文春文庫)