昭和的なブンガクとして「嘘はほんのり赤い」(片岡義男)
実に20年ぶり(だと思う)に片岡義男を読んでみた。
そうあのバブルの時に一世を風靡した、バイク、コーヒー、セミロングの片岡である。当時、片岡義男的ストーリーに憧れ、男の格好よさ、女の可愛さとはこんなもんだといかにもステレオタイプに影響をうけまくった片岡である。
いや今読むと恥ずかしいかというと・・・
いや
そんなに悪くないぞ。これで恥ずかしいと言ったらば江国香織は読めないし、これでご都合主義だと言ったらば片山恭一はもっとご都合主義だ。適度に抑制の効いた文章と事件があるんだかないんだか何だかわからない展開、それでいて読むと妙に気分が良くなる文体。ああこれこそ青焦がれていた片岡なんだよなぁ。
片岡の作品にはバイクやコーヒー、タバコは必需品だ。女は黒髪でなければいけないし、セミロング、あるいはロングでなければこれもダメ。だいたいヘルメットをとったとき「ふぁさぁー」って髪がなってなければいけないのである(まあ片岡が「ふぁさぁー」なんて書かないけどね)。
しかしなんで片岡の本って売れなくなってしまったんだろう。今回もブクオフに探しに行ったんだけど昔はあんだけあったのにブクオフにはかろうじて二冊。しかも100円コーナーの片隅でこじんまりだ。あれだけ大手を振って歩いていたのが今では「僕もたまには読んでみてね」というのでは売れなくなったアイドルも見ているようで悲しい(そういえば元SPEEDの今井絵里子のアルバムは1万枚どころか5000も売れてないそうだ。そんなところを見るともはや滂沱の涙がとどめなく落ちる)。
で
片岡の話。
今回読んだ本は『嘘はほんのり赤い』
八つの話しからなる短編集。バイクはやはり出てくる。ああ、バイク乗りたいなぁ、片岡の本を読むと免許も持ってないくせにそう思ってしまう(免許とろうかしらん)。
「オートバイは並んで留めてあった。彼のはノートン・コマンド、彼女のは650ccの単気筒だ。遠 目には黒に見えるくらいダークブルーの塗装した部分以外は全てクロームの輝きを放っている」
これ自分がバイク好きでなくても乗りたくなってしまうのよね。いや片岡はやはりバイクを語らせたら上手な気がするんだよな。
話しの展開はわたせせいぞうだけど(そういえばわたせも最近すっかり見なくなった。バブルの残滓だろうか)でもこの落着きさ加減は好き。あのね、片岡の本って何もおきないのよ。そして何も展開しないのよ。あるのはちょっとした洒落た会話だけ。ゼロ年代ですっかりあれやこれや起きることに慣れてしまった僕たちは(いや角田や辻村や重松はスキャンダルを次々に増刷する。そのスキャンダルにすっかり作者も巻き込まれてしまってないかい)こんな何もおきない話しも心地いいのではないか。毒にも薬にもならない本とはまさにこのことなのかもしれないけれど、たまには御茶漬さらさらっていきたいんだよね。
なんて躾いい子、いいケツしてんな「喜劇悲喜劇」(泡坂妻夫)
昭和にいたトリックメイカーは二人だと思っている。
真っ当なトリックメイカーは鮎川哲也。彼は本当に真っ向勝負のトリックを作っていた(追悼)。
そして
真っ当でないトリックメイカーと言えば・・・
泡坂妻夫である。
とんでもない飛び道具の嵐。泡坂はつねに「とんでもない」であり続けようとした。自身がマジシャンであるところからミステリだけでなくマジックにも詳しい。そしてそれもミステリにしてしまう鮮やかさ、いうなれば僕らは彼の小説をあたかもマジックを見るかのように読んでいるのだ。
いやね、僕は泡坂こそすべての新本格の「父」だと思うんだよね。新本格が使う連作短編、館、叙述トリック、言葉遊びは全て泡坂がやっていたのだよ。うん。泡坂なくして新本格はできなかったんじゃないのかなぁ。リスペクトリスペクト。
「11枚のトランプ」では見事の連作短編の冴えを見せ
「乱れからくり」ではこれぞ館ものと驚かせ
「湖底のまつり」ではとんでもないトリックから叙述の楽しさをしらせ
「亜愛一郎シリーズ」では探偵ものの楽しさに目覚めさせ
「しあわせの書」では本自体がトリックになっていることに狂喜乱舞し
「生者と死者」ではトリックを保存させるために本を二冊買わないといけないという謎な仕様をし
「曽我佳城シリーズ」ではミステリの楽しさだけでなく奇術の楽しさも教えてくれた。
で、これも凄いんだよ。
『喜劇悲喜劇』
まず題名で気づくかなぁ。
じゃあ各章の題名も・・・
「ウコン号」「唄子歌う」「大敵がきていた」「期待を抱き」・・・そして最初の章は「今しも喜劇」最終章は「喜劇も終い」
登場人物は
たんこぶ権太、瀬川博士・・・
フフフわかるかなぁ。
そう回文なんです。とにかく徹底的に回文に拘ったとんでもないミステリ。そこかしこに回文が出まくりな本書はもはやミステリなんかどうでもいいぞもっと回文をもっと回文をと思わせる作品なんですよ。
ストーリーは泡坂にしては珍しい(かな?)、スラップスティックコメディな要素もありで肩の荷を下ろして読むことができます。主人公も売れないマジシャンだし、殺人が起きるのは豪華客船だし、とにかく楽しい。僕はこんなおもちゃ箱のような児戯溢れる泡坂の小説が好きです。最後のトリックや動機はうーんという人もいるかもしれないけど(僕はトリックには吃驚したけど動機は確かにうーん)、それも込みで非常に泡坂らしい作品だと思ってます。
というわけでおすすめですよ。ぜひ泡坂読んでみてはいかがでしょうか。泡坂凄いですぜ。
あれ?読まない。みんなスルー?
なんでだ、みな私だけ避けだしたわ、涙出んな。
バブルの頃だから意味があった「ナチュラル・ウーマン」(松浦英理子)
白いってことはなかなか「普遍的」ではないと思ってます。
いや時代に、文化に、雰囲気に・・・それぞれ面白いは変遷していく。いつの時代でも通用する面白さってのはないのではなんて思っているんですよ。
例えば僕はお笑い好きですけど、今見ると当時あれだけ面白かった漫才が面白く感じられない。例えばいまだにyoutubeなんかでB&Bやザ・ボンチ、セントルイスあたりを見ることができるんですけどやたら早口なだけで面白く思えないんです。感じるのは「ああ、古い笑いだな」という感覚。残念だね。
それは映画でも本でも同じでないかなとも思っているんです。ただ僕らは俯瞰で物事を見ることができるんで、当時の感覚に自己を投影したり、改まって現代の感覚でその面白さを俯瞰的に眺めたり(ある種のメタフィクション)して「面白い」を感じ取るのかなとも思うんですよ。
だから僕のいう「昭和」が面白いは決して「面白い」わけでなくある種の俯瞰で物事を眺めたことにより昭和=面白いという感覚になるってことなんですよ。人間って複雑だ。
前置き長いな。
松浦理英子のことなんですよ。
『ナチュラルウーマン』
読んで思ったことは「この本の役割は既に終わっている」ということだ。
80年代から90年代にかけて何もか肯定的にとらえる・・・そう未来のある時代にはこの本はとても意味があったと思うんだ。それは今までの「不自由」から「自由」への脱却としての道標としての意味。
でもね、それはあくまでその時代での話し。
僕らはあまりに自由になってしまった代償として倦怠と嘆息だけを生んでしまった。若者は車も欲しくない、時計もいらない。彼女もいらない、お金もいらない・・・そんな「今」を生きる僕らにとってこの本の「勝ち取る虚無」はただ鬱陶しいだけかとも思う。そしてそんな鬱陶しさを感じさせてしまうこの本の役割は「今」にはないのかと思う。寂しいね。
もう松浦が(あるいは村上龍が)闘おうとしている敵は今はいないんだよ。そこにあるのは敵ではなくただ醸し出す「空気」だけなの。
そしてそれが僕らは分かっているからこそこの本を読んでも感銘は起きない。起きるのは当時に読んでいたらたぶん感銘するんではないかという悟り澄ました倦怠感だけなんだ。
とくにラストのほうで執拗に行われるソドミーに関してなんか書かれれば書かれるほど苦笑を禁じ得ない。残念ながら今は普通の子が普通にソドミーを与え、そしてその与える理由は抵抗でも共闘でもなんでもなくただ微細なる「快楽」のためでしかないということなんだ。おそらく松浦はこのソドミーをセンセーショナルとして書いたけれど、そんなのが20年たった現在ではただの道化師になる下がっている。時代ってのは残酷だぜ。
ただこの日記では松浦のこの作品を全否定しているわけではない。少なくともこの作品が書かれたときには松浦の闘う相手は明確に存在していたんだ。だからこそこれは当時、「名著」だった。でもそれは当時の話し。
そして本を読むということは時代の違いからくるボタンの掛け違いを否定することでなく、掛け違いの意味を考えることなのかなとも思う。その点で僕はふとこの時代を思い出させてくれる松浦のこの本は実は「名著」なのではないのかとも思ったりするのである。
80年代的な僕の名著
松浦英理子「ナチュラルウーマン」
筒井康隆「虚人たち」
小林恭二「ゼウスガーデン衰亡史」
村上龍「テニスボーイの憂鬱」
高橋源一郎「さようなら、ギャングたち」
島田雅彦「彼岸先生」
山田詠美「風葬の教室」
田中康夫「なんとなくクリスタル」
まだ虚無がブンガクとして機能していた時代だと思うんだ。
かぢいくんのこと「檸檬」(梶井基次郎)
かぢいくんは散歩が大好きです。とにかくそこらへんをづいづい歩きます。
「檸檬」では京都を
「城のある町」では松坂を
「泥濘」では東京を
「路上」では散歩して転ぶまで
づいづいづいづいづいづいづい
散歩しかすることがないみたいです。有吉散歩に出れば確実にレギュラーはとれたでしょう。
そして散歩の途中で買い物するのも大好きです。
「八銭のパンを買って十銭で釣り銭をとったりしてしきりになにかの反抗をしめしていた」
いや何の反抗でしょう。十銭持っている俺えらいということでしょうか。たまにかぢいくんの思考回路に疑問がはしります。
このあとかぢいくん銀座ライオンでビールを飲み、なぜか小物屋で石鹸を買います。かぢいくん、ヒルナンデスばりな東京散歩です(以上「路上」)。
あとかぢいくんは妄想も大好きです。
すぐ桜の木の下には死体が埋まっているとか謎なことを言い(「桜の樹の下には」)
丸善では檸檬が爆発するとか言い(「檸檬」)
崖から落ちることを想像し(「ある崖上の感情」)
ネコの爪を切ったらどうなるだろうと夢想します(「愛撫」)
たぶん、かぢいくんは中二病をこじらせているのでしょう。だから妄想ばかりで自分からは何もできないんです。
その証拠に「城のある町」では美人な義姉がいるのにかぢいくんは何もしません。SODなら絶対にこのあと二人は見つめ合ってそして〇〇して××して△△するのにかぢいくんはしないばかりか義姉の娘のほうにシンパシイを感じています。
そう、かぢいくんは中二病なだけでなくロリコンなんです。叔父であることをいいことにこの少女(勝子)を何度もぎゅうぎゅう抱きしめます。さらに勝子がおぼれたときは裸でぬれねずみな勝子を見てにやにやしてます。さらには勝子が他の子どもと遊んでいるのをいつも蔭からぢっと見つめています。
怖いぞ!かぢいくん!
きっとかぢいくんが現代に生きていたら秋葉原のメイド喫茶の常連になっていたと思います。いやAKB劇場の常連でしょうか。あるいはアニメイト・・・・
かぢいくんは文章も下手です。すぐびっくりマークを多用します。困ったらびっくりマーク。悩んだらびっくりマーク。びっくりしてなくてもびっくりマーク。たぶん文章が格好つかないんでびっくりマークを使うんでしょうね。
小説の終わらせ方もダサすぎるくらいダサいです。短編の終わりには会話文を使います。
「子猫よ、後生だからしばらく踏み外さないでいろよ」(「愛撫」)
「彼らは知らない。病院の窓の人々は崖下の窓を。崖下の窓に人々は病院の窓を。そして崖の上にはこんな感情があることをー」(「ある崖上の感情」)
「課せられているのは永遠の退屈だ。生の幻影は絶望と重なっている」(「筧の話」)
ええっと高校文芸部の同人誌でしょうか。これ大人になってみたら完全なる黒歴史だとい思うんですけど。書いてから10年後、子供も産んで普通の家庭を築いたあと、ふとこの文章を読んだらばきっと恥ずかしさで発狂しお尻に東スポを挟んでフラメンコを踊ってしまうでしょう。間違いありません。
結論です。
かぢいくんは
散歩好きで
妄想好きで
美少女好きで
中二病な
病人です。
でも、かぢいくんが嫌いかと言われると僕は好きなんですよ。たぶん。
新潮文庫版『檸檬』梶井基次郎
今ならすぐたたかれそう「文士と姦通」(川西政明)
僕はサークルでの恋愛と職場内の恋愛が苦手です。
あれ、困りません?ああ、この人前付き合っていたのに別れたんだ。どうしよう。どう接したらいいだろう。いやこっちは呼んでこっちは呼ばない・・・いやそれも変だし。っていうか前は違う人と付き合っていたよね。あれこんどは。いやいや・・・・
困る。
まあそのままうまくいくカップル(付き合う→結婚)という流れならいいんだけどそうとも限らないからねえ。よしんば結婚しても離婚なんて流れも。いや自分が気にしすぎかなぁと思うんだけどどうも困ってしまうんですよね。
これどうも男性のが気にするのかなぁ。そんなことないか・・・どうなんでしょ。僕はどうもダメなんすよね。今まででも職場の同僚とそんなことになったことはないし。なりそうでも徹底して拒否してしまう。うーむ、どうもそのあとの面倒のが先にきてしまうのかも。恋愛は感情の爆発だと言われますけど、僕はどうもその後の面倒なこともついつい考えてしまい、損得勘定で考えてしまうんだよね。
つまらない男ですよ。
しかし世の中にはそんな損得勘定なんか考えず自由に恋愛をするツワモノがいっぱいいるわけで・・・
『文士と姦通』川西政明
いやーひどい(褒めている)。
文士の先生は夜もお盛んだった。しかもこれあり?ってレベルでお盛ん。それをぐいぐいと切り込んでいく気鋭の評論(ってかノンフィクションかな)。
俎上にあげられる文士は北原白秋、芥川龍之介、谷崎潤一郎、宇野浩二、宇野千代、岡本かの子、佐田稲子、有島武郎、志賀直哉、島崎藤村、夏目漱石。
ここで太宰治と中原中也が出ないのが不思議。
北原白秋は夫のある女性と付き合い、しかも姦通罪で訴えられる。いやー、ぶれてない。そしてそんな内緒の付き合いなのにその女性のことをぐいぐいと詩にして書いてしまう白秋。あのね、これ今ならツイッターに「○○と今日はホテルで待ち合わせ」って書いてしまうようなものよ。脇が甘すぎるよ、白秋。
その時の詩がこれ。
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白い月がでた、ソフィー
出て御覧、ソフィー
勿忘草のような
あれ、あの青い空に、ソフィー
どうしてあんなに泣いたの、ソフィー
細かな雨までがまた
新内のように聞こえる、ソフィー
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ださ!
なんだこれ。ああ、もう恋は盲目だよ。ほんと盆暗である。白秋の不幸は死んだ後でもこんな阿呆な詩を読まれてしまうことだと思う。
芥川はその点、そんなに恋に執着してない。まあ若いころはそれでも遊んだのだけど、其のあとは何をやってもむなしいばかり。それが自殺の原因なのかなと思うとふとさびしくなる。
芥川で笑ったのはこの箇所(笑ってはいけないけど)。「龍之介は巨根の持ち主であった。友人はあれではかなうまいと嘆息したのだ」オイオイ。そんな個人的なことまで書かれてしまう芥川って。当時はモテモテだったんだろうね。巨根でハンサムだもの。でも龍之介はそんなものに群がる女に嫌気がさし自死してしまう。諸行無常だぜ。
変態と言えば谷崎である。まず谷崎は自分の妻千代の妹、せい子が好きになる。その時せい子は若干14歳。はいロリコン確定。でせい子と付き合うためには千代邪魔じゃーん。だから友人の佐藤春夫に押し付けるのね。これが有名な嫁交換事件。でもせい子は谷崎好きでないのよ。まあだいたい著者近景みても小太りだしね。「背が低く、小太りな潤一郎はもともとせい子の理想の男性像ではなかった」。フラれっぷりもいい感じだ、谷崎。
その後、佐藤春夫とうまくいっている千代をみた谷崎は千代と別れたことが惜しくなり、「あれは俺の女だ」と言い出す。ハイ、DQN確定。もう~。ちなみに谷崎はこのネタで「痴人の愛」を書くわけ。転んでも唯で起きないぞ。
島崎藤村は自分の姪に手を付ける。しかも処女。やってまったー。またロリコン確定である(ロリコン多いな)。しかも最低なことに藤村はそのことの処理を全くせず自分はフランスに逃げるのだ。あとは任せたお兄ちゃん。つまり手をつけた姪の父である兄に全部任せてフランスはパリへ。兄ちゃん困っただろうなぁ。
でパリから帰って反省すると思いきや、またその姪とやってしまうのだよ。藤村、お前反省はしないのか。で散々付き合って結局金の力で別れるようになる(当時藤村は文壇の地位を確定していた)。いや、全然感情移入できないんですけど。というかむしろ気持ち悪い。
それに比べると佐田稲子や岡本かの子、宇野千代は自由でいいなぁ。ある種のビッチなんだけ実にのびのびしている。ちなみに佐田稲子と宇野千代は当時とんでもなく「美人」だった(写真も載っているけどいい女だよ)。岡本かの子はそうでもないけどね。
とうわけで文豪のとんでもなくフシダラな面を見ることのできるこの本、おすすめです。ただし最後の夏目だけは牽強付会すぎます。夏目、意外と常識人だったんだろうなぁ。
こんどは太宰治、田山花袋、坂口安吾、中原中也、石川啄木あたりのフシダラな面を読みたい。2冊目希望ですぜ、川西先生。
ひどい本三連発「クリスマス・テロル」(佐藤友哉)「殺人鬼教室BAD」(倉阪鬼一郎)「墜落遺体」(飯塚訓)
ここんとこ酷い本ばかり読んでいる。
まあ酷い本を読むのは今に始まったものではないけれどさ。
まず佐藤友哉
『クリスマス・テロル』
自殺志願者の少女が島に流されてそこで男に助けられる。男は27歳。そして島には記憶を無くしてしまうもうひとりの少女、更にはその少女をかいがいしく世話する祖母がいる。
いやここまでは酷くない。というか有川や加納あたりが書きそうなハートウォーミングな予感をさせる本である。
でもね、佐藤はそんなにいいやつじゃないぞ(いままで読んでいるので知っている)。
佐藤は僕らの気持ち悪さを増幅させるのが得意な作家だ。それは「フリッカー式」や「デンデラ」ですでに知っているはず。でもねえ・・・・
ここからネタばれ。
ここぞとこきおろし「作家の値うち」(福田和也)
いや批評家ってのはつくづく凄まじいよねえって話しですよ。
まず、世の中の本をこれでもかで読まなければいけない。ここまではわかるわかるぜ。で問題はそこから。それだけ読んで文壇にもある程度自分の立ち位置ができるということは作家の先生と仲良くなるってこともあるんだろうなと思う。でもそんなの関係ねえんだ。仲良くなった作家の先生の作品だってこれでもかとぶったぎる。
そのあと気まずくないのかしらん。
でもそれが批評家の仕事。それそれそれそれとぶった切る。ここで大事なのはただただ切るだけではダメ。これは駄目、でもこれはいいという見事なる「批評眼」がなくてはいけない。さらにぶった切るだけでなくて見事なるロジックと藝がなくてはいけない。
いや凄まじき世界だよね。
個人的に信頼している批評家というと
大森望(SFやとんでもミステリではとくに信用している)
杉江松恋(僕と趣味が似ているので)
平岡正明(もはや鬼籍に入ってしまわれたけどね。うねるような文章が大好き)
千街晶之(なんだかんだでしっかりとした批評だと思う)
巽昌章(SFではこの人は欠かせない。特にサイバーパンク)
逆に信頼してないのは
新保博久(偏りすぎなような気がしている。批評家というより単なるミステリ好き)
北上次郎(どうも判官贔屓)
あ、アヤツジと有栖川の批評(というか太鼓持ち記事)は全く信用していません。
で、今回の作者のことは結構信用している(多少保守っぽい言動にうーんとなるけれど)
福田和也『作家の値うち』
約700作もの純文学、エンタメを点数化して批評してしまうという暴挙(100点満点)。当然点数は良い物悪い物あり。もう悪い物に対するこき下ろし方とかなんともマジかよーーって思うくらい。いやいや批評家はこれぐらい過激でええのよ。
良い点数の作品は純文学だと
村上春樹「ねじまき島クロニクル」
小島信夫「抱擁家族」
高橋源一郎「さようなら、ギャングたち」
などなど。高橋源ちゃんが入っているじゃーん。
エンタメだと
山口雅也「生ける屍の死」
笠井潔「哲学者の密室」
栗本薫「グイン・サーガ」
など。これらが90点を越える。個人的には笠井の最高傑作は僕も「哲学者の密室」だと思っているので嬉しいことこの上ない。
あと80点代で
アヤツジの「時計館の殺人」、花村萬月の「笑う山崎」、島荘の「異邦の騎士」、連城の「戻り川心中」なども入っている。同感。やったね。
で、ここからはこき下ろし。これがもう酷いのよ(大好きだけど)
真保裕一・・・生真面目な人なのだろう。本当によく調べている。でも面白くない。
佐藤賢一・・・文章が幼稚であり人物の作り方が安易すぎる。
椎名誠・・・エッセイの骨法を脱しておらず小説と呼ぶに値しない。
鈴木光司・・・彼の人気こそが「ミステリー」でもあり「ホラー」でもある。
藤原伊織・・・すみからすみまで自意識過剰に由来する妄想の産物である。
船戸与一・・・どこかできいたようなイデオロギーと落合信彦的与太話。
渡辺淳一・・・渡辺の作品がベストセラーになっていることをして日本人の退潮・堕落とみなすものはすくなくない。
でもわかる~。
本の批評なんかもっとひどい。
丸谷才一「女ざかり」・・・題名からして、救いようがなく低劣である。
高橋源一郎「ゴーストバスターズ」・・・恥知らずの一言。
藤原伊織「テロリストのパラソル」・・・全共闘世代の妄想がてんこ盛りになった作品。
よしもとばなな「不倫と南米」・・・アルゼンチンに取り巻きたちといってでっち上げた小説。その経緯が作中に取り込まれているのは誠実なのか厚顔なのか。
面白い。とにかく福田の面白さは歯に衣きせぬばっさばさ感にある。その点では豊崎女史も及ばないと思っている(豊崎女史はまだ守るものがある)。丸谷の「女ざかり」に関してはとーーーーっても同感。売れているとき「なんでこんなダサい本をみな読んでいるんだ」と思ったりして(と言いながら当時は自分がおかしいのかと思い結局読んだのだが)。
いやこれ2作目なんかもあるのかしら。最近の作家(有川や万城目、舞城なんか取り上げてほしいものだ)の評価も読んでみたい。これを読むと点数の良かった作品だけでなく悪い作品も読みたくなってしまう不思議。これぞ批評家の技なんだろうなぁ。
ちなみに僕が最近読んだ作品で点数の低いBEST。
友成純一「ナイト・ブリード」 いきなり話しが終わる。少年ジャンプか!
浦賀和弘「ファントムの夜明け」 ただの自慰。延々と自慰を見せられる。
太田光「幻の鳥」 文章が下手すぎる。これで芥川が取れるなら世の中芥川受賞者だらけである。
桜庭一樹「伏 贋作里見八犬伝」 プロットめちゃくちゃ。得意の自分語りばかり。
渡辺淳一「エ・アロール」 学べることころは何もない。こんなでも銀座ならモテる。
この5つの作品は幸福の科学が出版している「フビライハーンの霊言」より下である。