本と珍スポと教育と

本について語ります。珍スポットについて語ります。あとたまに教育について語ります。ゆるゆるとお読みください。

ミステリ覚書「本格ミステリ01」

ミステリ好きもマニアになると細部にこだわる。ええ?面白ければいいじゃない・・・いやいやそうはいかないんですよ。ついついこだわりが面白さを越えていたり。面白くないけどこのこだわりが素晴らしい・・・なんて本末転倒な感想も。

本格ミステリ01』本格ミステリ作家倶楽部編

実は講談社では本格ミステリ倶楽部シリーズというのがほぼ毎年でていたのだけどこれはその記念碑的作品。最初だけにどの作家さんもこれはというのを出している気がする(まあ鯨さんが屑だったけど)。

でも今回おすすめは作家が書いた作品ではない。こっちがメイン。後半に掲載された円堂都司昭の論文「POSシステム上に出現したJ」というミステリ評論が面白いのだ。

この評論、従来の笠井潔理論「大量死→本格ミステリ」的な死を通した人間の復権が90年代のミステリとしたら2000年代に表れた清涼院はその死すら復権されずつぎつぎに消費されるものだと喝破する。

これは私見だけどこの流れって哲学でいえばレヴィ・ストロース構造主義的なものが笠井潔だとしたらどこが主でどこが従かわからない清涼院はまさにドゥルーズリゾーム的なものでないのかな。だとするとそれらが流行している0年代という時代に清涼院が生まれたのはまさに当然だったのではってふと思う。

翻ってこの論文が書かれてもう10年。その復興からまた原点回帰が行われているのは哲学もミステリも同じかも。あずまんが唱えたのは「人間らしくあれ」っていう至ってなんかどーでもいいメッセージだったのではないのかしらん。それはミステリもそうで最近のミステリというと米澤に東野に伊坂。なんだかんだで悪ふざけは消え、真摯な作品がメイン。結局限りなく自己を分裂してリゾームになることは0年代に主張されたけどそれは大変だったのではないのかなとも思うのねん。だからこそそこは「しんどい」から少し原点に回帰するっていうのもまあありなんだよねえ。

結局ミステリは面白いから読むんだ、心地よいから読むんだ。至って当たり前な「感覚」こそが現代のミステリ事情なのかなとふと思ったりするわけですよ。