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本と珍スポと教育と

本について語ります。珍スポットについて語ります。あとたまに教育について語ります。ゆるゆるとお読みください。

たまらなく80s「永遠の放課後」(三田誠広)

世代というものがあります。懐かしさは人それぞれ。僕なんかはバブル絶頂期に高校生だったんですが(まったく浮かれ八兵衛な感じだよ)、その少し上の世代ってのは結構中途半端な世代なのかなとも思うんです。団塊の世代には程遠い。なんにでも「俯瞰でみる」、所謂、しらけ世代ですよ。

なにをやっても「傍観者」でいる自分。そんな世代なのかなとも思ってます。だから音楽が生まれ、演劇が行われ、芸術が語られる、時に傍観者の世代は「文化」が生まれるんです。それは永遠なる倦怠とともにね。

ルネサンスはそうではなかったか、あるいは足利義政のころの茶器や能文化は。さらには時代として停滞していた元禄はそんな感じでは。そして劇的には何も動かなかった大正デモクラシーに置いてもその傾向が。

みんながみんな「同じ方向」に行かないからこそ皆そこで考え文化が生まれ、そしてそこに悩むのかなぁと思います。

そう、70年代から80年代にかけてってのはそんな時代ではなかったですか?僕は回顧主義なんでそのころの時代が大好きなんだけど(とくに文学は70年代から80年代は黄金期だと思っている。中間小説の発達はまさにそれではなかったですか。そして日活ロマンポルノの先鋭性はそこに先駆けてないか。さらに漫画が爛熟したのもこのころ。70~80にかけては皆がいろいろ悩んでいたからこそいろんな考えが生まれたのでは。そういえばニューアカもこのころだしね)、そう考えるとぐるり回って今の2000年代ってのは同じような「悩み」の時代なのかなともふと思ったりしています。


そしてそんな時代を過ごした方にはこの本を。

『永遠の放課後』三田誠広

いつまでも80sです。

三田というと青春文学の旗手だけど、そこに描かれる青春は永遠なるものではなく(題は永遠なんだけどさ)、とっても局地的な80年代的な感覚かなと思ってます。

それは代表作「いちご同盟」を読んでもわかること。件の作品はこっちが恥ずかしくなるくらい「ど直球」ですけど、そこにあるのは80年代という時代の息吹なんですよ。


今回の作品もそう。年代こそ書いてないけど主人公はイーグルスをコピーしカーペンターズを歌い(yeterday once moreの発売は1984年)、そしてギターを弾くんです。邦楽なんてなんだそれという時代が70から80にかけてではないかなぁ。

主人公は今「何をすべきか」迷う高校生。大学にいっても……、勉強もそれほどできないし……、逡巡だけがつのります。そんな主人公がふとしたことから音楽を認められ、そしてミュージシャンとしての道を歩む。

でも彼は「ミュージシャン」になりたかったわけでもありません。なぜ自分は音楽をやっているのか、そこに対し、否定も肯定もできない「宙ぶらりん」な状態でいるのです。

そんな中、如才ない主人公の友人は一流大学に入ります。でも彼もまた悩んでしまうのです。彼は大学にいく意味を失い、そのまま大学をやめてしまいます。「自分で何かできる」と思っている彼はまた実は「自分は何もできない」ことを知ってしまうんです。

だからこの作品は「なにもできない自分」を知っている80年代に青春を過ごした人にとてもダブルんじゃないかなとふと思ったんですよ。翻って三田の本は実はこのどうしようもなく何もできないような気がするゼロ年代の人にとっても「リアル」かなとふとね。

いやいや、そもそもこの「何もできない自分」という主題は太宰からあるテーマではないか。それが太宰のころの大正から昭和にかけて生まれ(まさに世は倦怠ではなかったか)、そのまま三田の80sに生まれ、更にはついこの間書かれた又吉の「火花」では今生まれるのは、まったくもって偶然ではないんでないのと思ったりします。

そしてそんな作品だからこそアツく語ることは恥ずかしいんです。太宰はこそこそ読む本ですけど、三田も、そして又吉もこそこそと読む本なんではないかと夢想してしまいます。うん。どうですか。



僕は含羞のある時代が好きです。だからこそ声高に「正義」を語る人間に対しては訝しさを感じてしまいます。それはほんとにそうなのってね。それが世代的な操作からきているか、それとも僕個人の資質の問題かなのかは


ちょっとわからんのですけど。

 

永遠の放課後 (集英社文庫)

永遠の放課後 (集英社文庫)