本と珍スポと教育と

本について語ります。珍スポットについて語ります。あとたまに教育について語ります。ゆるゆるとお読みください。

ドイツミステリを讀んでみる「コリーニ事件」(フェルディナント・フォン・シーラッハ)

ドイツミステリというものがある。半可通(あまり知らないくせに)の僕があえてドイツミステリの特徴を言えば

夾雑物がない

なんてことが言えるのかなと思う。犯罪に対し、ストレートに受け入れる。それ以外の「装飾物」を伴わない。あくまでも「事件」だけに向き合う。ドイツミステリはストイックだと思う。

これがイギリスミステリなら洒脱な装飾が作品を彩るしアメリカのミステリなら恋愛や家族や、そういろいろな「装飾物」が作品を膨らます。

でも

ドイツミステリはあくまで一直線に「犯罪」に対峙する。カントが純粋理性批判を書き、ハイデガーが哲学を作り上げた風土がドイツもミステリをもそのようなものにしたのではないかと半可通の僕は考えている。

『コリーニ事件』フェルディナント・フォン・シーラッハ

讀んでまず思ったのは僕ら日本人がいつまでも原爆の過去に囚われるように(それは決して悪いわけではない)、ドイツ人はナチスという過去が思い枷となっているのではないかということ。

これは特に作者であるシーラッハがそうなのかもしれない。作者の祖父はナチス党全国青少年最高指導者でもあった。そんな彼が自らの出自としっかり向き合った作品が本書なのだと思う。その点でこのミステリは「フィクション」でありながら限りなく「私小説」に近いものではないかと感じた。

実際主人公である、新米弁護士ライネンは彼、シーラッハではないか。そしてライネンの経験してきたことはシーラッハが実際に経験してきたことでないか。

そう考えるとこの本はとっても「広い」話しである一方でとっても「狭い」話しにもなっていく。そう、僕らは実際にシーラッハ本人が感じている苦悩をそのまま、しかも原液で飲まされているのだ。飲み味は苦い。殺人を犯すコリーニはシーラッハの「もう一つの自分」なのではないだろうか。それぐらい彼は自己の出自に関し苦悩していたのではないか。

まあ読んでない人はなんのこっちゃではあるが少なくともこの本は煌びやかな気持ちになる楽しさも読み終わったあとにくる幸福感もない。あるのはどんよりといた澱だけだ。でもその澱こそ「現実」であるということに僕らは気づかされるのかもしれない。その意味でこの本の役割はとても大きい気がするのだ。

法とは、正義とは、そんなことに対して答えることは難しいし、僕らは答えることを判断保留し答えないことで日々の安寧を獲得できる。でもシーラッハは違う。そこは答えなければならないのだ。たとえそれで空中分解したとしても。

読んでハンマーで頭かち割られたような読後感、これは劇薬ですね。

 

コリーニ事件

コリーニ事件