国語というファッショ
国語は好きけど国語教師の了見の狭さが嫌いだ。
とくに「これはこういう読みです」という読みしか認めない人ね。そんな人に限って教科書ガイドべったりだったりするんだよ。それ国語でなくてただの狭い感覚でないのかい。
例えば国語教科書で有名な太宰治の「走れメロス」。これ必ず「友情こそ素晴らしい」展開で語られるけどもう少し読みは複数でいいとおもうんだよね。そもそも太宰自体が「なんだ、友情って・・・ワロス。ちょっとジョークで書いてみようかしらん」って書いた作品でないの(それは太宰の他の著作を読めば一目瞭然なのにねえ)。もう少しいろんな読み方をしてもいいと思うのだけれど。
また教科書は国語に道徳も教えさせるため(これ、国語の教科書を読んでみるとわかる。とにかく道徳的な話ししか出ないんだよ)国語なのか道徳なのかわからなくなってしまう。いや、いいんだよ、道徳は道徳で。ただ「これは素晴らしい話しです」なんて大上段に語られると読まされているこっちもしらけてしまい、はいはい、道徳大事大事そうですねえ。。。って感じになってしまう。
僕としては国語で一番大事なのは多読。とにかくいろいろ読むことでいろんな考えを身につけること。そしていろんな読みがあることを知ってみることが大事だと思うんだけどねえ。
どうもデオドランド国語ばかりで嫌になっちゃうなぁ、と思うんですよ。
って思っていたらこんな本を見つけた。いや、いろいろ考えている人もいるんだねえ。
『情報編集力をつける国語』藤原和博 重松清 橋本治
これは面白いなぁ。仕掛け人はあの藤原さん。夜スぺなんかで公立の中学に塾を招いてしまった教育界の革命児。
この人が中心になって重松や橋本を巻き込み中学で新たな「国語」に挑戦する。
重松の『ナイフ』(これは中学生には読んでほしい名作)をテキストにしてまずは授業。面白いなと思ったの藤原さんはやっぱり国語が好きなんだよね。だから通り一篇な教師のしないような国語を展開する。
例えば生徒それぞれにロールプレイングをさせて国語の登場人物になったらどうなるかを書かせたり、あるいは自己紹介でインパクトのある紹介にするにはどうしたらいいかを考えさせたり。あるいは本文の中から如何に詩的な表現があるかを抜き出させたり。
それは答えのある国語でなく「答えのない」国語。これこそが国語のあるべき力でないのかな。そもそも国語という科目は一番ペーパーに向いてないような気がするんだけど。問題作成者の気持ちを探り合う奇妙なテストだし。いっそレポートのみで国語はいいのじゃないかとも思ったりする(それのが大変だけどね)。
この本ではスペシャルゲストで作者の重松が出てきて自己の作品を語ったりする。これはすげえなぁ。なかなかこんな幸せないんだけど。
また古文では橋本がいかに古文の世界の人はどう考えていたかを教える。徒然草や枕草子なんかをテクストにして読み解く内容は大人もなるほど目から鱗です。
全部の国語がこうなることは必要ではないけど国語はこうあってもいいのかなという出来です。
ただこの授業には一つだけ問題があって・・・それは教える方も「かなりの知識人」でないといけないということなんだ。それに教える人もこれでもかと言うくらい物を読んでいる人じゃないと。いつまでたっても教える内容同じ、知識欲なし、国語好きでもない「国語教師」なんかには無理なんだよなぁ。その点では難しいとも思うけどね。
愚痴ですけど、自分の教えている生徒にも「センセイの言ったことでないから×です」という国語教師に教わっている子が多くいます。
そんなときは塾なんで本来こんな読みもできるんだけど学校ではこう言っているからこう書いてください。じゃないと点数になんないんでなんてモヤモヤした指導をしています。
なんかそれは国語の名を借りたファッショな気がするんだけどなぁ。モヤモヤモヤモヤ。