詩人は怖い「求愛瞳孔反射」「にょっ記」(穂村弘)
世の中にはどうしても理解できない人がいる。
なんでこんな思考思いつくんだろう、なぜこのようなことを考えるんだろう、そんな人種が存在するのだ。
そしてそれとは「詩人」であり「歌人」である。
いや小説家はまだわかるんだよね。ああこう思いついたかすげえなぁなんて思うんだけど詩人や歌人はそこの範疇を越える。なぜそんなこと考えるの?自分の常識がぐらぐらと崩れ足元が危うくなる。やばいやばい。そんな気持ちになってしまいなんとも困ってしまうんだ。一言でいえば私たちの常識をぐずぐずと浸食しいつのまにか足元をぐらぐらにしてしまうのが詩人であり歌人なんだ。なんだよ、テロリストだねえ。中島敦が「狐憑」の中で詩人を無惨にも殺して食してしまったがむべなるかな。
今とんでもなく自分たちの「世界」を崩しにかかる詩人というと谷川俊太郎やねじめ正一が挙げられるけど(ねじめの詩集を読んだことのない人は一度でいいから読むのを薦める。とんでもなくて脳が沸騰するぜ)、ここ最近では穂村弘がとんでもなさすぎて困るのだ。
見た目は普通の好青年なのにねえ。
『求愛瞳孔反射』『にょっ記 』穂村弘
前者は詩集。後者は日記(というかエッセイ)。でもこれ日記でないでしょ。なんというかほんと読んでいて困ってしまう。
前者に関しては例えば「国道にて」っていう詩があるんだけど最後に「人形焼きが食べたいな」とうフレーズで終わるわけ。いやここまでは理解できる、できるよ。でもそのあと次のページをめくるとページに「アンなし」という言葉だけがやってくる。なんでアンなしなんだ、なんでそれをもったいぶって次のページにそれだけかいたんだ、っていうかアンのない人形焼きはないのか、なぜアンなしを希望するんだ。もうここで僕の頭はぐるぐるなんですよ。とにかく僕の「こうだな」って感覚がぐずぐずの豆腐のように崩れていくのが読んでいて楽しい。それが穂村の真骨頂なのかなとも思う。
後者に関してはもっととんでもない。日記の体裁をとっているけどこれ日記じゃないからね。妙に面白いんだけど僕はその一方でこの本がとんでもなく怖いんだ。だって穂村の感覚って明らかに「狂人」(この言葉をあえて使います。フーコーによれば狂うことは聖性の一つなのです)じゃないですか。
例えばね・・・
飲み屋でまず最初にイクラ丼を頼み、全国の下戸がついているから大丈夫だといって「さあもってこい、いくら丼」という穂村はなんかおかしいけどなんか怖い。それはそんなことを思いつかないから怖いんだ。
あるいは電車の中で「顔の左半分しか汗かいてない」と言われ鳥肌がたつ穂村に僕も鳥肌が立つ。いやなんでもないことなのかもしれないけどどうにも僕は居心地が悪いのだ。
そう、この本は面白いんだけど(それは大保証する。買って損なし)、でもその一方で「とんでもない」んだよなぁ。どうにも自分の居所がなくなってしまう感じがして。そんなエッセイを書ける人ってなかなかいない。ただ面白いただ笑えるだけのエッセイなら山ほどあるんだけど穂村はその中に「冷たい狂気」を感じてしまう。そこがどうにも脇汗をかく。
この一節が好き。
「四十過ぎてスタジャンなんか着ているのはほむらさんが変態だけですよ、と云われてショックを受ける。
ほむらさんか変態・・・。
四十代の日本人男性は何を着ればいいのですか、神様」
スカジャンです。