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本と珍スポと教育と

本について語ります。珍スポットについて語ります。あとたまに教育について語ります。ゆるゆるとお読みください。

バブルの頃だから意味があった「ナチュラル・ウーマン」(松浦英理子)

白いってことはなかなか「普遍的」ではないと思ってます。

いや時代に、文化に、雰囲気に・・・それぞれ面白いは変遷していく。いつの時代でも通用する面白さってのはないのではなんて思っているんですよ。

例えば僕はお笑い好きですけど、今見ると当時あれだけ面白かった漫才が面白く感じられない。例えばいまだにyoutubeなんかでB&Bやザ・ボンチ、セントルイスあたりを見ることができるんですけどやたら早口なだけで面白く思えないんです。感じるのは「ああ、古い笑いだな」という感覚。残念だね。

それは映画でも本でも同じでないかなとも思っているんです。ただ僕らは俯瞰で物事を見ることができるんで、当時の感覚に自己を投影したり、改まって現代の感覚でその面白さを俯瞰的に眺めたり(ある種のメタフィクション)して「面白い」を感じ取るのかなとも思うんですよ。

だから僕のいう「昭和」が面白いは決して「面白い」わけでなくある種の俯瞰で物事を眺めたことにより昭和=面白いという感覚になるってことなんですよ。人間って複雑だ。




前置き長いな。



松浦理英子のことなんですよ。




『ナチュラルウーマン』


読んで思ったことは「この本の役割は既に終わっている」ということだ。

80年代から90年代にかけて何もか肯定的にとらえる・・・そう未来のある時代にはこの本はとても意味があったと思うんだ。それは今までの「不自由」から「自由」への脱却としての道標としての意味。

でもね、それはあくまでその時代での話し。

僕らはあまりに自由になってしまった代償として倦怠と嘆息だけを生んでしまった。若者は車も欲しくない、時計もいらない。彼女もいらない、お金もいらない・・・そんな「今」を生きる僕らにとってこの本の「勝ち取る虚無」はただ鬱陶しいだけかとも思う。そしてそんな鬱陶しさを感じさせてしまうこの本の役割は「今」にはないのかと思う。寂しいね。

もう松浦が(あるいは村上龍が)闘おうとしている敵は今はいないんだよ。そこにあるのは敵ではなくただ醸し出す「空気」だけなの。

そしてそれが僕らは分かっているからこそこの本を読んでも感銘は起きない。起きるのは当時に読んでいたらたぶん感銘するんではないかという悟り澄ました倦怠感だけなんだ。

とくにラストのほうで執拗に行われるソドミーに関してなんか書かれれば書かれるほど苦笑を禁じ得ない。残念ながら今は普通の子が普通にソドミーを与え、そしてその与える理由は抵抗でも共闘でもなんでもなくただ微細なる「快楽」のためでしかないということなんだ。おそらく松浦はこのソドミーをセンセーショナルとして書いたけれど、そんなのが20年たった現在ではただの道化師になる下がっている。時代ってのは残酷だぜ。

ただこの日記では松浦のこの作品を全否定しているわけではない。少なくともこの作品が書かれたときには松浦の闘う相手は明確に存在していたんだ。だからこそこれは当時、「名著」だった。でもそれは当時の話し。

そして本を読むということは時代の違いからくるボタンの掛け違いを否定することでなく、掛け違いの意味を考えることなのかなとも思う。その点で僕はふとこの時代を思い出させてくれる松浦のこの本は実は「名著」なのではないのかとも思ったりするのである。




80年代的な僕の名著

松浦英理子「ナチュラルウーマン」
筒井康隆虚人たち
小林恭二「ゼウスガーデン衰亡史」
村上龍「テニスボーイの憂鬱」
高橋源一郎「さようなら、ギャングたち」
島田雅彦「彼岸先生」
山田詠美風葬の教室」
田中康夫「なんとなくクリスタル」

まだ虚無がブンガクとして機能していた時代だと思うんだ。

 

ナチュラル・ウーマン (河出文庫)

ナチュラル・ウーマン (河出文庫)