本と珍スポと教育と

本について語ります。珍スポットについて語ります。あとたまに教育について語ります。ゆるゆるとお読みください。

公害の本です「苦界浄土」(石牟礼道子)「ドキュメント隠された公害」(鎌田慧)

ここんとこ読んでいるのはノンフィクションが多いです。僕はもともとノンフィクション好きなんですけど(まあこれが現実だよってね)、今回はちょっと公害関係。

はいはい、そこ、暗くならない。

まあ公害といっても四大公害ぐらいしか知らなかったのでいい機会と以下の2冊を読む。

まずは水俣病

『苦界浄土』石牟礼道子

いや、石牟礼さんのシャーマンっぷりが半端でない。石牟礼は実際に水俣病になった人に憑依するように文章を書く。それはあたかも恐山でイタコが口寄せを行うような「実際」を見せる訳。

これ、たぶん読んだことない人が多いかもしれないけど僕は一読、どう対応していいかわからなくなってしまった。まず石牟礼さんが憑依しているときの文章がもはやンノンフィクションとかのレベルではないんだよな。

これはかえって水俣病を伝えることができないんでないのと思うけど石牟礼はそんなこと関係なくぐいぐい筆をすすめる。

ああ、このとんでもない、「俺が正しいんだ」的なものはどこかで見たなぁとじっと考えて、そうだ、これは奥崎謙三だよと思い自分で納得。うん、これはあのとんでも映画「ゆきゆきて進軍」の水俣病バージョンなのだよ。

とにかく水俣病を正しく知るのにはこの本は不適切だと思うけど、石牟礼っていうとんでもない作家がいることは改めて分かった。本の温度がすさまじい。これは問題作だわと思う。いろんな意味で。

解説も読むと石牟礼はしっかりとした取材をしているわけではないのよ。その点でもこの作品はノンフィクションとしては失格であろう。実際石牟礼はしっかりとした取材をしていないことに対しては平然としているし。

でもそんなことは気にせず、「水俣を舞台にした一つのブンガク」だと思うとこれは様相が違ってくる。これは水俣を中心に書いた地獄絵図。そこにあるのは石牟礼のこれでもかな憑き物である。納得。

 

苦海浄土 わが水俣病 (講談社文庫)
 

 




でもこれだけだとどうも消化不良なんでこっちも。

『隠された公害』鎌田慧

こっちはしっかりとしたノンフィクション。舞台は対馬。そこで起きるカドミウム被害・・・そうイタイイタイ病である。その顛末を鎌田はルポライター独特の筆致で語る。

これは石牟礼とは逆に正統派のノンフィクション。しかも犯人はだれかを鎌田は精緻な文章で追いかける。

この本の凄さは実際の被害者までもが企業擁護で動くことだ。ここが凄い。というのも対馬は産業が貧弱であり、その企業がくるまでは生活も困窮していた。したがって健康被害の出た家庭でさえも(さらには本人でさえも)、「悪いのは会社ではない」という。

そう、公害というと無軌道に進む会社とその被害者という図式であるが、事態はそれほど簡単ではないのだ。実際には「会社」で働いているから生活が成り立っているというのもある。10年先の健康被害よりも目の前にある金の大切さ・・・これどこかでみた図式じゃないか。

そう、原発である。あの図式はまさにそれでは。そしてそのような状況では被害は「目を瞑るもの」として語られる。その気持ちの悪さ。「ボラード病」でくしくも吉村萬壱が喝破した構図がここにはあるのではないか。僕は読んでいて背中にイヤな汗をかいていた。このような図式で周りが「公害」だ、「原発だ」と唸っていても、その当事者は目の前の「生活」を第一に考える怖さ。先が絶望だと分かっていてもそれはあくまでも「先」。その絶望に進むことに目を閉じ、目の前の生活を受ける人間を誰が笑えようか。僕はこの本が50年ほど前にかかれていながらそれでいて現代にも通じつ怖さに戦慄する。

最後は蒲田の正義感がピエロの様な展開になってくる。告発は簡単だ。でも問題はその先。告発したことによりかえって生きていけなくなる「事実」に対し鎌田は無力感まで持ちながらもまだ足掻く。健康と金を天秤にかけたとき、人は遠くの健康より目先の金に動く。なぜか、それは遠くの健康がまだ「よくわからない」ものだからだ。その現実を僕らは嘲笑することはできない。

「会社あっての地元です」そう言ってしまう、患者の家族の言葉が突き刺さる。

 

 






ちょっと知恵熱。僕はなぜノンフィクションを読むかと言われたらそれこそ「知ることができるから」としか言えない。そしてそこにあるのは単純な図式でなく複雑な現実だ。まず、その図式を認識することが一番大切だとい思い本を開く。