過去との対峙「人質の朗読会」(小川洋子)
こんなのあるんだから本を讀むのはやめられないんだよねえ。
『人質の朗読会』小川洋子
うわわわわ。やられた。ああ、やられた。いや、やられた。
この本の凄いところって僕らは何のために本を読んでいるかってことなんだと思うんだよね。
いや
「自分のため」でしょ。
そう、自分の何のためかは問題ではない。ただ一つ答えがあるとすれば「自分が満足する」ために本を読んでいるんだ。
そして僕はいやおうなしに自分の過去と対峙してしまう。そうだよ、この本はそんな本なんだ。本が装置になっていると言ってもいいかもしれない。
この本に書かれている9つの話し。
それは決して
チョコレートより甘い恋愛でも
ドキドキするようなクライマックスでも
身も凍るようなホラーでも
緊迫する頭脳戦でも
笑みがこぼれるようないい話でも
ふしだらの極みの性愛でも
息もつかせない闘争劇でもない。
そこにあるのは「どこにでもあるかもしれない」話しである(しかもオチもクライマックスもない)。でも小川の見事な語りによって僕らはその話を読み、「自分にも物語があったこと」を確実に思い出すのだ。
そう、これはあたかも触媒のようなーそれは僕らが物語を思い出す契機になるー作品なのである。そしてこの物語が見事なのはその触媒を小川が見事にー意図的であれ、意図的でないであれー形成しているところにある。
僕の場合、二作目のやまびこビスケットの形状がそれであった。僕はたまたまそれであったけどほかの方は違うかもしれない。でもそこは問題でない。これぞ小川のマジックだと思うがその契機の散らばせ方がほんと絶妙なのである。参った。
この作品を読んだとき僕は一読、オースターだと思った。ただしオースターよりも出来はいい(というか日本人に馴染んでいる)。おそらく外国人にとってはオースターのが馴染むのではないかと思う。つまりはそれこそが風土なのであり小川はその点で、日本人である僕にはより鮮烈だったことを付け加えておく。
この本を読み(正確には二章のやまびこビスケットの話しを読み)僕は子供のころの話しを思い出した。
僕は東京台東区は吉原の生まれである。近所にはソープランド(当時はトルコ)が立ち並び決して子供が入ってはいけないところだ。
そんな吉原の公園が僕の遊び場であった。
そこにはソープのお姉さんであろう、暇を持て余した女性がいつもタバコをふかしてベンチに座っていた。
子ども好きで、なぜか僕らが公園で遊んでいるとどこからか駄菓子を買ってきて僕らに渡すのだ。そのときそのときで貰える菓子は違うのだがその中に、ギンビスの「食べっこ動物」があったのを思い出した。
彼女はそれを僕らに分け、たまにぼくらに「キリンは英語ではなんていうか知っている?」と聞くのである。食べっこ動物には動物の形状をしており真ん中に英語が書いてある。箱のうらにも動物の名前が英語で書いてあった。
「ジラフだよ」そう言うとお姉さんはけたけたと笑い、食べっこ動物を一口で食べ、「こんなのが美味しいのかい?」と僕らに聞いた。僕らが答える前に彼女はタバコを美味しそうにふかし、また笑った。
僕がタバコを吸うのは彼女のせいかもしれない。