本と珍スポと教育と

本について語ります。珍スポットについて語ります。あとたまに教育について語ります。ゆるゆるとお読みください。

ミーハーでもいいじゃない「落語娘」(永田俊也)

教条主義者だったと思う。

学生の頃、蓮實重彦の「物語批判論序説」を読んだ。それは今あることに目を向けろ、そこに付随する口当たりの良い「物語」に騙されるなということだったと思う。

例えば映画を見る。その場合、僕らはつい付随している「芸能人の知識」や「映像のとり方」に目がいってしまい純粋なる「映画」を見ないでいる。それに対し蓮實はそれは本来的ではないと批判するのものであった。

これはいろいろなことに敷衍が可能だ。例えば、哲学を読んでもその言葉に傾けず、哲学史的な役割をついつい見てしまう。あるいは小説を読んでもキャラクターの流れで読んでしまう。また野球を見るときは「野球」そのものでなくつい知識で見てしまう(これは蓮實が別名義「プロ野球批判論序説」(草野仁)でも書いたことだが)。

ということ。

だから僕は結構、本来的でないものを嫌っていた。哲学ならわかりやすく説明するためのアンチョコ、あるいは解説書は本来的ではないと思ったし、音楽なら夾雑物があるものは嫌いだった。ジャズは好きだがフュージョンは邪道だと思ったし、テクノなら口当たりのよい音楽に移行するものはテクノもどきだと思っていた。

若かったんだねえ。

僕が哲学ではハイデガーが好きなのはそれが原因かもしれない。彼は本来的と非本来的という概念を分けることで本来的な生き方こそが正しい(つまり人間は生=現存在ということを理解して生きるべきだという思想)と喝破していたのだ。

当然、ドラマからものごとを好きになるのは邪道。テレビでやったからそこに興味があるなんて言うのは本来の味を知らない、所謂ミーハーな流れであると思っていた。好きになるなら本物を見ろ、偽物を見るな。






どーでもいいじゃん!


まったくなんなんだよ、俺。そう、最近ではそれこそがドグマでないのって思っているのね。もっと適当に楽しむべきじゃないか。ミーハーいいじゃない。そこから嵌ってもイイじゃない。ということで最近ではすっかりこの考え方もなくなっています。あのね、最近はミーハーこそが疲れが出ない「好きなるなにか」なんじゃないかなぁと。

というわけで「赤めだか」あたりから落語が好きになるのはあり。ただそこから好きにならないのはちょこっと無しなのかなぁ←まだドグマが抜けきってない。始まりはジャニーズでいいからその面白さを感じてもらうのもありだと思うんだよね。

今回の本は落語を知らない人にも楽しめるんじゃないかしら。



『落語娘』永田俊也

落語を知らない人も十分楽しめる本だと思うし、これを読んで少しでも落語が好きになってくれると嬉しいなぁ。

主人公は女落語家。女伊達らに・・・って言葉がある落語界で彼女は奮闘する。ある日、自分の師匠がいままでオクラだしされていた幻の話しを出していき(その話は演者が呪われて死ぬという噂の話しなのだ)、それを演じることになる。。。。

まあわかりやすい!とにかく敵役、味方役が明解でとっても読みやすい。ベタなるいじめられる主人公萌、まあ簡単に言えば判官贔屓ですな。それがすいすいって入ってくる。まあそこまでわかりやすくてはどうなのって思いながらも読んでいて応援してしまいたくなってしまう。

そしてラストは見事なる大団円。これぞエンタメ。うん、満足です。これで少しでも落語が好きになってもらえるのはないかと期待しています。

 

 

落語娘 (講談社文庫)

落語娘 (講談社文庫)

 

 








と言いながら急にドラマで取り上げられたので○○が好きなんて言われるとこのミーハーめ!と差別的に思ってしまう修行の足りない男です。全く困ったものだよ。いいじゃねえか、楽しければ。

植木等所ジョージの偉大さを最近は常に思ったりしています、ハイ。