とにかく考えてしまいます「犯罪」(フェルディナント・フォン・シーラッハ)
静かな物語です。
これは凄いなぁ。僕は熱狂的な物語も好きだが(物語の温度ってのはあると思う)、その一方で静かに語る物語も好きだ。
まず、全てが断片として語られそしてその断片のそれぞれに無駄がない。この物語には夾雑物がないからこそ純粋な結晶が残る。
『犯罪』フェルディナント・フォン・シーラッハ
11の犯罪を描くこの本はどこまでもクールだ。
シーラッハはあくまで静かに、そして観察者として犯罪を語る。そこにあるのは結晶化した犯罪だ。僕はこの11の物語に痺れてしまった。罪を犯すものを決して誇張せず、そして同調せず、更には肩を持たずかといって攻撃もせず。シーラッハはあくまで「観察者」としてこの物語を語るのだ。
そして僕らはそれぞれの犯罪が「当たりまえ」なことに気付く。犯罪は彼岸に対する此岸ではない。そこは陸続きである。僕らの生活の延長に犯罪があること、こんな当たり前のことすら気づかない僕たちにーいや、気づかないのではなく気づきたくないのだーシーラッハは見てみればいいじゃないかと語りかける。
「フェーナー氏」十数ページの短編でシーラッハはとてつもなく長い時間を書く。僕はこの主人公の狂気を他人事と感じることはできない。だって彼はどこまでも我慢したんだから。
「タナタ氏の茶盌」怖い。たぶん彼らヨーロッパ人にとって日本人はこんな風に見られているのかもとおもい、ぞっとした。最後の会話は蛇足なのだがその蛇足こそがこの物語の真実である。
「チェロ」こんなにも悲しい物語を僕は読んだことがない。森鴎外の「高瀬舟」に似ているがこちらの方が静かな分悲しい。
「ハリネズミ」うってかわって愉快な話し。シーラッハは犯罪者にやさしい。それは犯罪がある意味で「犯罪」ではなく国家における簒奪に対する反逆だからだ。
「幸運」これもよい話し。人を助けるために人は犯罪をしてしまうのに誰がさばけるというのだろうか。
「サマータイム」とても悲しい。まるで歌舞伎の一幕を見ているかのようだ。そこにあるのは「優しさ」ゆえに報われない人である。
「正当防衛」背筋がぞくりとする話し。平凡に見るぼくらの生活の裏には奇妙な符牒があるということを知らされる。
「緑」病気は「ある」わけでない。病気は「つくられる」ものだ。そして一度作られればその病気はひとり歩きしてしまう。
「棘」平凡な毎日が怖い。ルーチンワークな仕事をするだけの僕たちが「狂わず」にいられるのはある種の狂気なのかもしれない。
「愛情」この11の話しの中では残念ながら一番凡庸。僕はこれだけは評価していない。
「エチオピアの男」最後にシーラッハが持ってきたのは愛だった。僕はこの話しを最後に持ってきたことに脱帽する。
シーラッハを読むといろいろ考える。それはドイツと言う国家がそもそも哲学的だからかもしれない。